• 青森
  • 観光

紙と光の無限の可能性、青森第7代ねぶた名人・竹浪比呂央、ねぶたへの大願

毎年8月2日〜8月7日、青森県青森市では比類ない熱気に包まれる「青森ねぶた祭」が開催されます。青森のねぶたは、国の「重要無形民俗文化財」に指定されているお祭りです。毎年、300万人を超える国内外からの旅行客が盛大な祭りを見物するために訪れます。お祭りの主役といえば、巨大なねぶたと呼ばれる灯籠で、それに魂を吹き込むのが、ねぶたを制作するねぶた師です。今回、「People of Japan」の特集では第7代ねぶた名人「竹浪比呂央」氏を取材し、みなさんを青森ねぶたの世界へお連れします。

tsunaguJapanライターお薦め観光コンテンツはこちら!

この記事にはアフィリエイトリンクが含まれている場合があります。アフィリエイトリンクを経由して購入された場合、あなたからの追加費用なしで私たちはコミッションを得る可能性があります。

りんごよりも青森を代表する「ねぶた」

2022年にとある旅行会社が日本中の20歳以上の人々に「青森ねぶたを知っていますか?」という調査をしました。結果は8割以上が「青森ねぶたを知っている」と回答したことからも、青森ねぶたの知名度の高さが伺えます。青森県各地には大小さまざまなねぶた祭りがありますが、「東北三大祭り」に入った「青森ねぶた祭り」は青森市で開催されるねぶた祭りのことを指します。

※出典元:株式会社 阪急交通社

 

青森市では毎年どのねぶた祭りでも、20台以上の巨大ねぶたが登場します。この大型のねぶたを作る作家は「ねぶた師」と呼ばれます。彼らはねぶたの設計図を描き、グループを率いて骨組みを作り、和紙を貼り、最後に灯籠に色付けをします。こうして、重厚感のあるねぶたになります。

青森市にはで大型ねぶたを制作するねぶた師が、現在合計で16名います。その中でも卓越した技術を持ち、ねぶたを広め保存するために尽力しているねぶた師が「ねぶた名人」に推薦されます。ねぶた名人は、ねぶた師として最高の名誉です。2023年に、青森ねぶた保存会は、ねぶた師・竹浪比呂央さんを第7代ねぶた名人として公式に発表しました。実に、11年ぶりのねぶた名人の誕生でした。

人生で初めて見た芸術品

竹浪比呂央さんは、1959年に青森県木造町(現在のつがる市)に生まれました。初めてねぶたを見たのは3、4歲の時。それはまさに祭りの準備期間のことでした。各町内会や空き地、または倉庫でねぶたが作られていました。「私は燃料店横の小さな小屋でねぶたが誕生するのをみていました。」竹浪さんは幼少の時、ねぶたを見た光景を話を始めます。「細かなことまで事細かに覚えています。なぜなら、それが人生で最初のねぶたを見た瞬間だからです。」

小屋に行ってねぶたを見るのが、竹浪少年の一番楽しみな時間でした。紙と鉛筆を持って、目の前で見えるねぶたの模様を書き写していきました。親戚は彼がこんなにもねぶたが好きなのを見て、彼を青森ねぶたの聖地・青森市に連れて行きます。

1970年に、竹浪さんは初めて青森市のねぶた小屋(ねぶた制作をする場所をねぶた小屋と呼びます)に行きました。今まで見ていたものとは異なり、木造で作られる大型ねぶたをそこで初めて見たのです。そのねぶたは鹿内一生さん(第4代ねぶた名人)が制作したもので、その年の最高栄誉賞・田村麿賞に輝いた作品でした。1970年の青森ねぶた祭りの思い出を、竹浪さんは「びっくり仰天した」と言います。「僕もこんなねぶたを作ってみたい」と、当時11歳だった竹浪さんは、ねぶたを自分の手で作りはじめてみたのでした。

弟子入りし、正式にねぶた師の修行を始める

始めは独学でねぶたを作っていましたが、手本通りに描くだけでも見本の3割の出来になれば、良い方でした。そのまま大学生まで独学で作り続けましたが、一人で模索しても竹浪さんは満足できませんでした。大学時代、仙台の大学まで通っていた彼は、早朝の長旅で疲れながら青森市に帰る日々を過ごしていました。ある日、通学前の朝6時にねぶた師・千葉作龍さん(第5代ねぶた名人)のねぶた小屋に行き、小屋の前で4時間立ち続けて、やっとの思いで千葉さんに会うことができました。そこで竹浪さんは、自分が作ったねぶたの写真を取り出して見せて、彼の元で修行したいことを伝えたのです。そして1979年、ようやく弟子入りすることができました。その時、竹浪さんは20歳で、大学で学びながらねぶた修行に励むことになりました。
                                
ねぶた師の弟子になって10年後、竹浪さんに祭りの中で大型のねぶたを作る機会がやってきました。「あの時、祭りの主催者は千葉師匠に製作してほしかったのですが、師匠は時間がなく、私を推薦してくれたんです。」と竹浪さんは言いました。デビュー第1作目のテーマは金太郎でした。作品の初お目見えが即ちデビューとなった1989年、竹浪さんは正式にねぶた師となったのでした。その時竹浪さんは30歳、薬剤師として仕事をしながら、ねぶた師として活動していました。

tsunaguJapanライターお薦め観光コンテンツはこちら!

ねぶた師の苦境:食べていけない仕事

ねぶた師としてデビューした翌年、新しく結成した青森菱友会に認められ、その団体からのねぶた制作依頼を受けます。そこから30年以上、竹浪さんは変わらず青森菱友会を制作しています。そして作品は幾度も表彰され、竹浪さんの名声はどんどん広がってゆきました。祭りの大型ねぶた灯籠だけでなく、個人や企業からの制作委託も受け始めました。

しかし、全てのねぶた師がこのように幸運なわけではありません。

ほとんどのねぶた師は、ねぶたとは無関係な本業を持っています。大型ねぶたを制作するのは一年に一度、制作時間は約4ヶ月もかかり、一時的な制作による収入では一年の生活費を賄えません。ねぶた制作はあくまで副業なのです。ねぶた師は皆、ねぶた祭り以外の時間を本業の収入に頼って生活しています。かつての竹浪さんも薬剤師の仕事がメインでした。

不思議なことに、青森県民にとって、ねぶた師は英雄のような、神のごとき存在です。彼らがいるからこそ、世界中からねぶたを見物しに人々が押し寄せてくるのです。しかし、皮肉なことに、ねぶただけに専念するとねぶた師は生活していけないのです。

ねぶた師である竹浪さんは、業界の苦境をよく理解しています。計画を練り、2010年に竹浪さんは「竹浪比呂央ねぶた研究所」を設立しました。

Klook.com

後進育成のため、ねぶた文化発展のため

真っ白な外観、シンプルなデザインの研究所の中は事務所と制作所に分かれています。制作所の面積は事務所よりも大きく、たくさんの制作途中のねぶたが置かれています。筆者が訪問したその日は、竹浪さんの弟子であるねぶた師・手塚茂樹さんを含め、数人が中で作業をしていました。

竹浪さんが研究所を設立した理由は3つ。一つ目は、ねぶたの制作場所を確保するためです。竹浪さんは言います。「大型ねぶたを制作するためにねぶた小屋が建ちます。春季後半から夏季(4月末〜8月8日の祭り終了の翌日まで)だけねぶた小屋は準備され、秋と冬はねぶたが制作できる小屋はありません。この期間、ねぶた師に制作の仕事があったら、倉庫を借りなければなりません。もしくは自宅で作業をすることになります。ねぶたを制作する場所がないため、新人の弟子は学ぶチャンスがありません。これは大きな問題です。」

竹浪さんは回顧します。過去、彼も夏の期間、千葉作龍師匠のねぶた小屋で制作しながら学んだものでした。しかし、夏の短い数ヶ月では学ぶにも限度があります。このため、竹浪さんは制作場所としての研究所をつくる計画を立てました。いつでも弟子に指導ができ、彼らにより多くの学習の機会を与えるために。研究所には現在4名の研究生がいます。そのうち3名は青森県外から来ており、しかも20代とまだ若者なのです。

二つ目の理由は、皆さんにねぶた師の活動状況を知ってもらうこと。前述したように、毎年夏のねぶた祭の大型灯籠は、ねぶた師の最もメインとなる制作物です。この時期はねぶた小屋に行けば、ねぶた師の真剣さと多忙な様子がよく分かります。多くの人が、ねぶた師は祭りが終わるとその他の季節は他の仕事をしていると思っていますが、「しかし、実際一番忙しいのは10月なんです。」と竹浪さんは話します。

8月の祭り終了後、来年のねぶた制作の準備をし、資料を集め、テーマを考えねばならない。他の土地に赴いて取材をすることも必要になってきます。「この研究所を通して、ねぶた師の仕事のうち、昔は見えなかった部分を見せていきたいと考えています。」研究所は見学できるよう開放されてます(要予約)。至近距離でねぶた師の作業を観ることができ、ねぶた師の活動への理解が深まるでしょう。

理由の最後の一つは、最も大きな目標:ねぶた文化の発展、です。

ねぶただけでない、芸術流派としての「NEBUTA」

現在、ねぶたは青森の代名詞となっています。しかし、源流を辿れば、青森ねぶた祭、秋田竿燈まつり、石川の石崎奉燈祭など日本海側の祭りは全て同じ起源、七夕行事から始まっています。七夕とは、織姫(おりひめ)さまと彦星(ひこぼし)さまが天の川を渡って、1年に1度だけ出会える7月7日の夜のこと。日本人はこの日に短冊に願い事を書いて、笹や竹に飾り付けます。

日本の一部の地域では当初、七夕の季節に、人々は小さな紙の灯籠を作り、上の方に字を書き、水に流していました。その習慣が徐々に各地で発展し、異なる様相を呈していきました。しかし、共通する要素は「灯籠」が依然として存在している点です。

青森人形灯籠が生まれたのは文化年間(1804-1818)、今ではおなじみのねぶたの始まりです。昔の灯籠の体積は小さく精緻で素朴な形をしていましたが、ねぶた作りの経験が蓄積していくとともに、技術は熟達し、だんだんと華麗かつ無類の大型灯籠になっていきました。昔は町内会みんなで一緒に制作していましたが、現在では専門のねぶた師がおり、数多くの流派まで生まれています。「これはすでに単なる灯籠ではなく、一つの芸術なんです。」と竹浪さんは語ります。

竹浪さんはねぶた灯籠に一つ新しい概念を作りました。それは「紙と光の造形」です。その概念のもと、ねぶたの全く新しい可能性を試し続けています。彼は各地を巡り、人々にねぶたを紹介し、ねぶたの製作技術を教えているのです。アメリカのロサンゼルスにまで足を運び、各方面での民間交流も進めています。

専門的な技術指導以外にも竹浪さんは、自身の作品を気前よくメーカーに提供し、メーカーは多種多様なねぶた関連商品の作成に竹浪さんの作品を使っています。Tシャツやタオル、扇子、それに文具やフェイスパックまであります。青森市のアパレル ショップ甲州屋は2006年から竹浪さんとコラボし、ねぶた柄のネクタイと上着を売り出し、大人気を博しています。

甲州屋は、竹浪さんの柔軟な姿勢と、ねぶた文化を広めたいという強い想いが印象深く、感動したそうです。今では甲州屋は毎年新しいデザインのTシャツを売り出しています。図案は全て前年の竹浪さんの作品を使います。売れ行きも年々上がり、人気の様子が伺えます。

ねぶた文化を伝承し続けていく努力

「将来、博物館にねぶたエリアができる日を夢見ています。」将来の目標を聞くと、竹浪さんはそう答えた。日本画でもなく灯籠でもなく、ねぶたなのです。この目標のため、竹浪さんは創作し続け、加えて後進育成に力を入れ優秀な新人を育て、ねぶた文化の更なる発展のため努力していきます。

サムネイル提供:竹浪比呂央ねぶた研究所

竹浪比呂央ねぶた研究所Instagram

東京の大人気おにぎり屋「ぼんご」ができるまで
~店主・右近由美子さんの波乱万丈物語東京の大人気おにぎり屋「ぼんご」ができるまで ~店主・右近由美子さんの波乱万丈物語

JR山手線大塚駅北口からほど近くの場所に位置する「おにぎりぼんご」。こちらは創業60年を超えるおにぎり専門店で、多くのお客さん達...JR山手線大塚駅北口からほど近くの場所に位置する「おにぎり ぼんご」。こちらは創業60年を超えるおにぎり専門店で、多くのお客さん達から深く愛されているお店です。一般的なおにぎりの倍ほどのボリューム感、そしてバラエティ豊かな56種もの具がメニューとして提供されるのが「ぼんご」の特徴です。味も見た目も抜群のおにぎりを食べる為に日本全国からファンが集い、平日でも開店1時間前には行列ができることも。「ぼんご」がこれほどの人気店になるまで、店主の右近由美子さんは本当に多くの困難を乗り越えてきました。若くして地元の新潟を離れ東京にやってきた右近さんの人生を、tsunagu Japanインタビュー記事シリーズ「People of Japan 」を通してお聞きしましょう。

この記事に掲載されている情報は、公開時点のものです。

ライター紹介

下町貴族
下町貴族
台湾の嘉義(かぎ)生まれ、古いものを愛する台湾女子。日本在住。東京下町は第二の故郷であり、銭湯は日常の遊び場です。取材ライターとして10年以上の経験を持ち、見聞きしたことを自分の言葉にして記憶します。
  • tsunaguJapanライターお薦め観光コンテンツはこちら!